さあ、始めよう、しかし、演じてはいけない!世界で一番やさしいスタニスラフスキー・システム②
もう、後悔していた。
小さなビルの一室。
私は三方を暗幕に囲まれた薄暗いスタジオの中心で椅子に座らされている。
私ひとりだ。
他に参加者はいない。
灯りは一灯のスポットライトのみ。
それが正面から私に当たっている。
なぜ、この古びたビルを見て引き返さなかったのか?
エレベーターが故障している時点で十分だったはずなのに…
かび臭い階段を登り、たどり着いたインタホンに反応が無いなら普通は帰るだろう。ノックまでする必要があったの?
ノック、静寂。
てっきり留守だと思いました。
と言い訳するには十分と思われる数秒。
「メールになにか行き違いでもあったのかも…」
と、残念そうな思考と表情を作った。
誰が見ているわけでもないのに。
きびすを返そうとしたその瞬間。
ドアは開いた。
もう引き返せなかった。
アクティングコーチを名乗るその男性はやけにニヤついた表情で私を眺める。
いや、ニヤついているのではない。
私を見た瞬間、彼の眼はまるで私が懐かしい知人であるかのように輝いた。
私を見て、突然の訪問に少し驚き、懐かしみ、再会の喜びに溢れている眼差し。
そんな感じが確かにした。
私は直ぐに彼がかつての知人だったのだと思い込んだ。
瞬時にあらゆる場面をさらったが、やはり全く誰だったか思い出せない。
「ああっ!あなたは、あの時の…」と言い出せない自分に罪悪感をさえ感じている時。
「初めまして、ようこそいらっしゃいました」
「あっ、はい、初めまして、先日メールをさせて頂いた…」
お互いの名前を確認し合うと、彼は私を奥へ通してくれた。
私は安心したような表情を見せていたと思う。
「ちゃんとメールは届いていたんですね」
なんて事をモゴモゴと言いつつ彼の後に従った。
「初対面だった…だよね。彼のホームページもブログも確認してきたのだ。接点が皆無なの分かってたはず。なら、あの表情は一体なんだったの?」
笑顔の解釈が変わる瞬間
私は自分が座っているのがアクティングエリアの中心らしいのに気づいた。
私の正面、やや離れたところにその男性が座っている。
暗さとライトの逆光で表情は良く分からないが、そちらが客席側という設定らしくパイプ椅子が数脚並んでいるのがわかる。
彼はおもむろに立ち上がるとそばの壁に手を触れた。
パチンという音と共にスポットライトが消える。
暗闇の中。
私のシルエットは赤、青、黄色とせわしなく浮かび上がっては消えた。
彼の後ろのたった一つの小さな窓。
今やそこから差し込むパチンコ店のネオンが唯一の灯り。
そのケバケバしい点滅よりも早く、私の鼓動は打っていた。
その窓に男が近寄る。
まるで、英国の執事が書斎のカーテンを夕暮れ時に閉めるかのように。
この場に不釣り合いな丁寧さでカーテンを閉めると彼は自分の席に戻った。
静まりかえる真っ暗な室内。
わずかにパチンコ店から漏れ聞こえてくる煽りの人工音。
かえって静寂を際立たせる。
思わず出口までの距離を背中で測っている。
ドアにカギはかけなかったはず。
ドアは外開き、出て直ぐ左に階段。
床に置いたバッグを足で引き寄せようとしたその時、
男は口を開いた。
「さあ、始めましょう。しかし、演じてはいけない」
「何これ?スタニスラフスキーの受け売りでしょ。って言うか絶対にこの人おかしい」
あの人懐っこい笑顔はサイコパス特有のモノだったんだ。
今更、後悔しても遅かった。
なんとしても逃げ出さねば…。